株と用語

セキュリタイゼーション

パーカーは砲煙のために戦闘の状況を良く確認できず、座礁した3隻の信号(「ベローナ」と「ラッセル」の遭難信号と「アガメムノン」の行動不能信号を見ることができるだけだった。ネルソンが戦いを中止したくても命令なしではそれが出来ない(戦争交戦規則は、すべての将兵に、戦いにおいては敵に対して全力を尽くすよう要求していた。)と考えたパーカーは、午後1時30分、旗艦先任艦長にこう言った - 「私は、ネルソンが後退することができるように信号を挙げようと思う。もし彼が戦闘を続けられる状態ならば、それを無視すればよいし、そうでないならば、それを理由に退却することができる。その場合、彼が非難されることはない。」。ネルソンはその信号の受信応答はしたが、戦隊への中継はしないように命じた。彼は先任艦長フォーリーを振り向いてこう言った。「フォーリー、君は知っているな、私は片目が見えん。 ? 時々盲目になるんだ。」、そして望遠鏡を見えないほうの目に当てるとこう言った、「本当に信号が見えんぞ!」。ネルソンの副将であるトマス・グレーブズ少将は信号を中継したが、他のほとんどの艦からは見えず、戦隊はネルソンがマスト上に掲げ続けた「交戦セヨ」の信号に従っていた。しかしネルソン配下の艦長でひとりリューのみがネルソンの旗艦「エレファント」を見ることができず、パーカーの信号に従った。リューはトロクレナ要塞を攻撃していた自らの部隊を引き上げたが、そのため逆に要塞の激しい砲火に身をさらしてしまい、命を落とす結果となった。 戦いがイギリスの優勢に転じたのはまさにこのときだった。それは彼らの優れた砲術によるものだった。列の南側の12隻のデンマーク艦の砲火は、彼らが受けた損害のために静まり始め、戦いの中心は北に移った。イギリスの目撃者の記録によると、デンマークの戦列は午後2時までには静かになったということである。 トラファルガーの海戦(英: The Battle of Trafalgar、仏: Bataille de Trafalgar)は、1805年10月21日に、スペインのトラファルガル岬(トラファルガー岬)の沖で行なわれた海戦。ナポレオン戦争における最大の海戦であり、これにイギリスが大勝したことで一時的な転機をもたらしたが、大陸におけるアウステルリッツの戦いでの敗北は防ぎきれなかった。 1805年、ヨーロッパ大陸は皇帝ナポレオン率いるフランスの資産運用 に置かれていたが、海上の支配権はイギリスのもとにあった。イギリスは海上封鎖を行ってフランスの海軍力を抑止し、イギリス本土侵攻を防いでいた。 ナポレオンはこの状況を打破すべく、海上からイギリス海軍を一掃することを決断。フランスとスペイン(当時、ナポレオンの支配下にあった)の連合艦隊を編成し、海上封鎖を突破し、ブーローニュの港に集結させた35万の侵攻軍によるイギリス本土上陸を援護することを命じた。イギリスはそれを阻止すべくホレーショ・ネルソン提督の艦隊を送った。 ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする27隻。ピエール・ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻であった。ネルソン提督は敵の隊列を分断するため2列の縦隊で突っ込むネルソン・タッチという戦法を使った。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦を予測しており、マストに多数の狙撃兵を配置していた。 連合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっていたため指揮系統も複雑で、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス狙撃兵の銃弾に倒れた。勝利の報を聞いた時、ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して戦死した。 ナポレオンはこの敗戦の報に対し、嵐による壊滅であると強調したが、外国為替証拠金取引 を失った以上、イギリス侵攻を諦めざるを得なくなった。ただし当時のヨーロッパに、この海戦の勝利による昂揚は微塵もなく、勝利したイギリスも冷静であった。ナポレオンはこの海戦の敗退による危機を、2ヶ月後のアウステルリッツの勝利で打開した。イギリスのピット首相は、この会戦の敗北にショックを受け、翌年失意の内に病死している。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、ナポレオン戦争の戦局の一大転機ではなかった。1815年のワーテルローの戦いでナポレオンに勝利して初めて、トラファルガーの勝利の意味が生きてくるのである。 この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場 (Trafalgar Square) である。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられている。 一方、フランス国民にとってこの敗北はトラウマとなり、ありえない敗北による衝撃を「トラファルガー」と表現するようになった。モーリス・ルブランの冒険推理小説「ルパン対ホームズ」において、フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがイギリスの名探偵シャーロック・ホームズに送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決において度々引き合いに出されるようになったのである。 フィニステレ岬の海戦(フィニステレみさきのかいせん、英語: Battle of Cape Finisterre、フランス語: Bataille du cap Finisterre、スペイン語: Batalla del Cabo Finisterre)(1805年7月22日)はスペイン、ガリシア地方のフィニステレ岬の沖でイギリス艦隊とフランス・スペイン艦隊の間で行われた海戦。 ナポレオン戦争の中の第三次対仏大同盟の戦いの一部として、ナポレオンのイギリス侵略を支援するためにイギリス海峡に入ることを企てたヴィルヌーヴ提督の艦隊を、カルダー提督指揮のイギリス艦隊が阻止した。 ナポレオンが正式にイタリアのピエモンテを併合することによって、1802年のアミアンの和約は脆くも崩れた。1803年5月18日、イギリスは再びフランスとの戦いに突入した。 ナポレオンはイギリスを侵略し、征服することによって、大陸封鎖を終わらせようと考えた。1805年、彼の総勢15万におよぶ「アルメ・ダングルテール(Armee d'Angleterre、イギリス侵攻軍)」はブローニュに駐屯していた。この軍隊がイギリス海峡を渡ることができれば、訓練も装備も十分でないイギリス陸軍や民兵を打ち破ることはいともたやすいことに思われた。計画は、まずフランス海軍がイギリスによって封鎖されているトゥーロンとブレストから脱出し、西インド諸島を脅かすことによってイギリスを西方航路の防衛に引き付けることから始められていた。フランス艦隊はマルティニークで合流すると直ちにヨーロッパに向けて反転し、手薄になった海峡の警戒を冒してアイルランドに反乱幇助の部隊を上陸させ、またアルメ・ダングルテールをドーバー海峡の対岸に運ぶことになっていた。 ヴィルヌーヴは、11隻の戦列艦と6隻のフリゲート、2隻のブリッグを率いて1805年3月29日にトゥーロンを出航した。彼はネルソン提督の封鎖艦隊を避けて4月8日にジブラルタル海峡を通過した。カディスで彼はイギリスの封鎖戦隊を追い払って6隻のスペイン戦列艦と合流した。連合艦隊は西インド諸島に向けて出航し、5月12日にマルティニークに到着した。 地中海にいたネルソンは追撃したが、西風によって足止めされ、ジブラルタル海峡を通過したのは1805年5月7日になってからだった。10隻からなるイギリス艦隊は、6月4日になって西インド諸島のアンティグア島に到着した。 ヴィルヌーヴはFX でガンテューム提督の率いるブレスト艦隊を待ったが、彼らは封鎖を破ることができず、現れなかった。フランス陸軍将校らのイギリス植民地攻撃の要求は(ダイヤモンド・ロック島要塞の奪還を除いて)顧みられることなく、艦隊は6月4日にマルティニークを出発した。6月7日に彼らは捕えたイギリス商船から、ネルソンがアンティグアに到着したことを知った。6月11日、ヴィルヌーヴは艦隊の合流と陽動というカリブ海での所期の目的をなんら成し遂げることなく、ヨーロッパに向かった。 アンティル諸島で、フランス・スペイン合同艦隊は28門フリゲート「バルバドス」とスループ「ネトレイ」に護衛された500万フランの価値があるイギリス船団と遭遇した。ヴィルヌーヴはスペイン艦「アルゴナウタ」(80門)と2隻のフランス・フリゲートにそれを日経225 させ、その全船と護衛艦1隻を拿捕した。 6月30日、合同艦隊はイギリスの14門私掠船を捕えて焼き払った。7月3日には、艦隊は1500万フラン相当の財宝を運んでいたスペインのガリオン船「マティルダ」を奪還した。「マティルダ」はイギリス・リヴァプールの私掠船「マーズ」に捕獲され、イギリスの港に曳航されてゆくところだった。私掠船は焼き払われ、商船はフランスのフリゲート「シレーヌ」に曳航された。 艦隊はヨーロッパへ帰還した。7月9日、北東の強風にフランス艦「アンドンタブル」はメンマストの桁を失い、また他の船にも損害が出た。11回も大西洋を横断したスペインのグラビーナ提督によると、この大西洋横断は非常に困難なものであり、そのため、一部の艦は万全な状態に無く、乗組員は疲弊し、食料は欠乏していた。連合艦隊は7月22日にフィニステレ岬の近くで陸地初認した。 フランス艦隊帰還の知らせは、7月19日にカルダー中将に届いた。彼は、ロシュフォールとフェロルの港の封鎖を中止し、ヴィルヌーヴを迎え撃つためにフィニステレ岬に進出するよう命令を受けた。両艦隊は、7月22日の11時頃に互いを視認した。 南西方向に機動すること数時間、17時15分頃、投資信託 の前衛にいた「ヒーロー」(アラン・ハイド・ガードナー艦長)がフランス・スペイン艦隊の戦列に突入することで戦闘が始まった。視界の悪い中、戦いは乱戦となった。20時頃、スペイン艦「フィルメ」と「サン・ラファエル」が降伏した。カルダーは翌日の継戦を期して20時25分に戦闘中止の信号を掲げた。闇と混乱の中、数隻はさらに1時間ほど戦闘を継続した。 7月23日の夜明け、両艦隊は27km隔たっていた。カルダーは優勢な敵に再び攻撃を仕掛けることを望まなかった。彼は損害を受けた「ウィンザー・カースル」と「マルタ」を護衛しなければならず、またロシュフォールとフェロルで封鎖していた艦隊が海に出てヴィルヌーヴの艦隊と合流する可能性も考慮する必要があった。そのため彼は攻撃を取りやめ、拿捕艦とともに自国へ進路を向けた。