制限値幅
1994年に英仏海峡トンネルが完成し、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもウォータールー駅であった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めたという。 2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更されたため、ようやくフランス側の悲願が叶った。 当時ウェリントン公の秘書官を務めていたラグラン男爵・フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた(ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争の総指揮を執る事になる。 半島戦争(はんとうせんそう、1808年 - 1814年)(英:Peninsular War(半島戦争)、西:Guerra de la Independencia Espanola(スペイン独立戦争)、葡:Guerra Peninsular(半島戦争)、仏:Guerre d'Espagne(スペイン戦争)カタルーニャ語:Guerra del Frances(フランス戦争))はナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争である。日本ではスペイン独立戦争(上記スペイン語参照)として知られている。この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはウェリントン公に率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである。 戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が株 しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。 「1808年5月2日-マムルーク(奴隷兵)たちの攻撃」 ゴヤ作 (1814年)この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになった。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きた。 ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」ゴヤはフランス軍による市民の虐殺をこの絵で激しく非難した。 1806年にナポレオン1世は、大陸諸国から英国への輸入を禁じる、大陸封鎖令をベルリンで宣言した。中立を維持する2つの国(スウェーデンとポルトガル)は、ナポレオンの通牒をむなしく拒もうとした。1807年のティルジット条約の後、スウェーデンはロシア帝国と戦うことになり、その時には東方に憂いはなくなり、ナポレオンはイベリア半島の港の攻略を決定した。1807年11月、大陸同盟参加に摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)が難色をしめしたのを受けて、ポルトガル侵略の任務を帯びたジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の陸軍をスペインに送った。同時に、スペイン首相ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍を資産運用 に送り、スールト将軍をコルナ方面に送った。スペインの2個師団は対立するポルトガルを占領しようと、艦隊奪取を目論みフランス軍と合流した。リスボンは、ポルトガル陸軍がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、軍事的抵抗もないまま、12月1日に攻略された。11月29日にポルトガル王妃と摂政と6000人の人々(艦隊の9000人の船員がそれに加わる)が逃亡したことは、ジョアン王子にブラジルを含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。(C'est ca qui m'a perdu)」と記されている。 仏・西軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。スペインでは貴族が政変でカルロス4世を退位させ、代わってフェルナンド王子がフェルナンド7世として即位した。ナポレオンはスペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に2人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起はミュラによって粉砕された。 それまでイギリスはヨーロッパ大陸における軍事作戦で中途半端なへまと相次ぐ敗戦で(1809年のワルヒェレン遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して十分な作戦をできず、イギリスはヨーロッパ大陸からの撤退を余儀なくされてきた。そういうわけで、ポルトガルは対ナポレオン戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。 スペイン軍は、5月19日から21日にかけての個人向け国債 の戦いでピエール・デュポン指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに再び事実上の軍事行動を起こす誘惑を掻き立て、初めて王侯貴族でなく人民が「大いなる侵略者」に反乱を起こしたというイギリスの宣伝で、すぐさま珍しい状況をもたらした。 1808年8月にイギリス軍は少将アーサー・ウェルズリー卿指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディム偵察隊がロワソンを阻止している間にウェルズリーはドラボルドゥ指揮下の軍を8月17日のロリーサの戦いで破った。8月21日に英葡軍はジュノー指揮のフランス軍とヴィメイロの戦いに激戦を交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略で戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。勝てたにもかかわらず、ウェルズリーは軍人として若すぎて、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮できないとみなされ、ウェルズリーの地位は、ハリー・バラードに替えられてしまった。バラードが死ぬと次はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ株 に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるipo 卿を残して、シントラ協定調査のために本国への帰還を命じられた。 英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン自身がイベリア半島に20万の兵を率いてゆくことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で攻撃(ブルゴスの戦い)したが、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦いを挟みながら、フランス軍の追撃を受けた。1809年1月にア・コルーニャから撤兵して終わった。ムーアは「コルーニャの戦い」(en)として知られる戦闘中に市街防衛の指揮中に戦死した。僅か2ヶ月余りスペインにいて、ナポレオンは元帥に指揮権を戻し、自身はフランスに帰国した。 3月にスールト元帥は北の回廊地帯を通って2度目のポルトガル侵略に取り掛かった。 始めはミノ川でポルトガルの民兵に撃退されたが、チャベス、ブラガを攻略し、さらに1809年3月29日にポルトを攻略した。しかし、アマランテなどの都市のシルヴェイラの抵抗は、スールト軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、この国からの退却かの賭けに打って出た。