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ヴィルヌーヴはその報告の中で、最初は攻撃する方針であったと述べている。しかし、風がイギリス艦隊に近づくのに丸一日かかるほど微かであったため、遅くなってからの戦闘のリスクを避けたものであるという。7月24日には風が変わってフランス・スペイン艦隊が風上となり、攻撃には理想的な位置となったが、しかしヴィルヌーヴは攻撃する代わりに敵に背を向けて南に向かった。彼は、ア・コルーニャに到着した8月1日、直ちにブレストとブローニュに進出せよとのナポレオンの命令を受けた。しかし、おそらく「ビスケー湾に優勢なイギリス艦隊あり」という誤報を信じたことにより、彼は8月21日にカディスに戻ってしまった。 海戦の結果はフランスの敗北であった。15隻のイギリス艦隊は20隻のフランス・スペイン艦隊と戦い、2隻のスペイン艦を捕獲した。イギリスの損失は、将兵の戦死39名、負傷159名であったのに対し、フランス・スペイン側の死傷者は476名に達した。最も重要なことは、ヴィルヌーヴはそのすべての目的に失敗したということである。彼はアイルランドに軍隊を上陸させることができず、ナポレオンの「アルメ・ダングルテール」もなすところなくブローニュで待機し続けなければならなかった。 しかし、イギリスの民衆と海軍本部はこの海戦をそのようには見なかった。カルダーは司令官を解任され、軍法会議に掛けられて、7月23日と24日の行動について怠慢の廉で厳しい譴責を受けた。彼は二度と海上勤務に就くことはなかった。 結果に失望したナポレオンは、イギリス侵略の計画を断念せざるを得なかった。その代わり、「アルメ・ダングルテール」は「グランダルメ(Grande Armee、大陸軍)」と名を変え、8月27日、オーストリアとロシアの脅威に対処するためにブローニュを出発した。戦いの数週間後に、彼はこう書いている:「グラビーナは戦場での決断において天才的なものを持っている。ヴィルヌーヴにその資質があれば、フィニステレの海戦は完勝を収めていただろう。」 ヴィルヌーヴとその連合艦隊はそのままカディスに留まり、10月21日のトラファルガーの海戦で壊滅することになる。 フリートラントの戦い(フリートラントのたたかい, 英:Battle of Friedland, 仏:Bataille de Friedland, 1807年6月14日)は、ナポレオン戦争の戦闘の1つ。東プロイセン東部のフリートラント(現ロシア連邦カリーニングラード州プラヴディンスク)周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍が、ベンニクセン率いるロシア軍を破った。 この戦いはマレンゴの戦いとよく似た経過をたどった。奇しくも6月14日は、7年前のマレンゴの戦いの戦勝記念日でもあった。 1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は壊滅的打撃を受け、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへ逃れた。ロシア軍がプロイセンの救援に向かい、1807年2月7日-8日、フランス軍との間でアイラウの戦いとなった。この戦いは両軍とも大きな損害を出し、決着は着かなかった。 フランス軍は一旦後退し、ルフェーブルを指揮官として3月18日からダンツィヒの攻囲戦を開始。5月27日にプロイセン軍守備隊が降伏した。その間にロシア軍も、プロイセンの臨時首都となっていたケーニヒスベルクを拠点に再編成を終えた。 6月にロシア軍は活動を再開し、6月10日のハイルスベルクの戦いでフランス軍に対して戦術的勝利を収め、東プロイセンを南北に流れるアレ川の東に後退した。ナポレオンは、ロシア軍を追うのではなく、その出撃拠点を叩くことを企図し、ケーニヒスベルクへ軍を向けた。これに対してFX 軍は、フランス軍の中で最も東側を進撃していたランヌ軍団を捕捉撃滅すべく、ケーニヒスベルクの南東約50キロの町フリートラントにおいて、再びアレ川を渡った。 Napoleon Series Map Archives - ハイルスベルクの戦い後の両軍の移動経路図、及びフリートラントの戦いの配置図が見られる。 6月13日深夜、ロシア軍はアレ川西岸のフリートラントの市街地を占領し、そこに進出していたランヌ軍団の先遣部隊を駆逐した。ランヌ軍団主力はいまだフリートラントへの途上にいた。急ぎグルーシーの騎兵部隊が、フリートラントの北西約3キロにあるハインリッヒスドルフの村落を確保し、6月14日明け方、フリートラント・ハインリッヒスドルフ間で戦いが始まった。14日午前9時の時点で、ロシア軍が45,000をアレ川西岸に投入したのに対して、戦場のフランス軍はランヌ指揮下の9,000とグルーシー指揮下の8,000に過ぎなかった。ランヌはコサック騎兵の浸透を受けつつも、巧みな指揮によって後退しつつ時間を稼いだ。 このときまでにロシア軍は失策を犯していた、第一は、ハイルスベルクからフリートラントまでの50キロ以上を短時間で踏破してきたため、14日午前中は十分な戦闘態勢が整っていなかったこと。第二のより致命的な失策は、アレ川で主力部隊とFX とが分断され、さらには西岸の主力部隊も、フリートラント市内を流れる用水路によって南北に分断されていたことである。 正午までにモルティエの増援部隊がコサック騎兵を撃退し、ナポレオンも戦場に到着した。午後4時までにはネイ軍団とヴィクトール軍団も戦場に到着し、フランス軍は80,000近くを集結させることができた。このとき、翌日にはミュラ軍団とダヴー軍団も戦場に到着すると予想されたため、ナポレオンの幕僚は14日中の反撃開始に反対した。だがナポレオンは、ロシア軍の致命的失策と、それによって生じた瞬間のチャンスを見逃さなかった。ナポレオンはネイに向けて、フリートラントの街を指差しこう言った。「あれがゴールだ。わき目もふらず前進せよ。」 午後5時、用水路南側のロシア軍左翼を攻撃目標として、猛烈な砲撃とともにネイ軍団が前進を開始した。ロシア軍は予備の騎兵を投入し、一時ネイ軍団が押し返される局面もあったが、デュポン師団と近衛砲兵隊が増援に駆けつけこれを撃退した。午後8時までにロシア軍左翼は崩壊し、ネイは用水路南側を制圧した。アレ川にかかる橋梁が焼け落ちたことで、用水路北側に残っていたロシア軍右翼は退路を失い壊滅した。 6月16日にはスルトがケーニヒスベルクを占領し、プロイセンは完全に敗北した。7月7日、ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世はティルジットの和約に合意した。和約によって、フランスとロシアとの間には協調関係がFX した。ポーランドはワルシャワ公国として独立を回復し、プロイセンはエルベ川以西の領土を失ったうえ巨額の賠償金を課せられた。 ボロジノの戦い(ボロジノのたたかい、ロシア語: Бородинское сражение, 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日))は、1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。フランスではモスクワ川の戦い(モスクワがわのたたかい、フランス語: Bataille de la Moskowa)とも呼ばれる。 モスクワ西方のボロジノ近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世率いる大陸軍(フランス軍を中核とするヨーロッパ諸国連合軍)と、クトゥーゾフ率いるロシア軍との間で戦いが行われた。両軍ともに甚大な損害を出したものの決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは終息した。 1812年6月23日、ナポレオンのロシア遠征が始まった。ロシア軍総司令官バルクライは、焦土戦術を実行しつつ、数回にわたって防衛陣地の構築を試みたが、大陸軍の侵攻速度が余りにも早く、退却を余儀なくされた。バルクライは戦うべきだとする政治的圧力に押されて総司令官職を解任され、後任にクトゥーゾフが就任した。 だがクトゥーゾフも、大陸軍との早急な決戦で無益な犠牲を蒙ることの愚かさを理解していた。そこで、クトゥーゾフは大陸軍をモスクワ西方100kmまでひきつけ、スモレンスクからモスクワに至る街道上の町ボロジノで迎え撃つこととした。ロシア軍は9月3日から陣地構築を開始し、「ラエフスキー角面堡」と「バグラチオン突角堡」を構築して大陸軍を待ち構えた。 ボロジノのクトゥーゾフロシア軍はボロジノに陸軍部隊120,000と野砲640門を集結させた。他に予備兵力として民兵(Ополчение)が後方にあったが、戦闘には参加しなかった。ロシア軍はバルクライの指揮する右翼をカラチャ川沿いに配置し、中央部をラエフスキーが守る角面堡、外国為替 をバグラチオンが守る突角堡、その外側を森林で防御する体勢であった。 大陸軍は兵力133,000、野砲587門を集結させ、北からウジェーヌの第4軍団、ネイの第3軍団、ジュノーの第8軍団、ダヴーの第1軍団、ポニャトフスキの第5軍団を配置した。戦闘開始前、ダヴーはロシア軍の左翼を南から迂回する作戦案を提言したが、ナポレオンはロシア軍左翼への正面攻撃を命じた。これはナポレオンらしからぬ単純過ぎる作戦計画であるとも言われるが、ロシア軍を1日で撃滅する決定的勝利を企図したものとも言われる。なお、この日のナポレオンは高熱に冒されており、このことがナポレオンの指揮の不徹底さや作戦計画の単調さの理由であるとも言われる。 9月7日午前6時、大陸軍はロシア軍左翼へ向けて前進を開始した。ラエフスキー角面堡へのウジェーヌ軍団の攻撃は大きな損害を出して失敗し、その他の軍団の前進も停滞させられた。午前10時までに戦闘は甚大な犠牲を伴う消耗戦の様相を呈していた。大陸軍ではネイが負傷し、ロシア軍ではバグラチオンが瀕死の重傷を負った。 正午過ぎ、バグラチオン突角堡に対してミュラが歩兵と騎兵の合同による突撃を仕掛け、これを奪取した。しかしロシア軍も隣接する高地から猛烈な砲撃を浴びせた。ミュラはナポレオンに対して親衛隊を増援に投入するよう要請したが、この日決断力を欠いていたナポレオンは要請を拒否した。午後3時、ラエフスキー角面堡への大陸軍の攻撃もようやく実を結び、コレンクールの騎兵連隊が突入に成功した。コレンクールは戦死したが、角面堡は占領された[1]。 こうしてロシア軍の第一線陣地は攻略されたが、その背後にはバルクライの右翼部隊が戦線を構築し、それ以上の前進を阻んだ。ロシア軍の体勢は全く崩れていなかった。午後5時までに両軍とも弾薬を消耗し尽くし、戦いは終息した。戦死傷者は大陸軍33,000、ロシア軍44,000に及んだ。両軍ともに決定的な勝利を得られないまま、クトゥーゾフはロシア軍に撤退を命じた。 ロシア軍の撤退によって道は開かれ、大陸軍は9月14日にモスクワに入城した。しかしナポレオンは会戦における決定的勝利をついに得られないままであった。陸軍部隊が健在のロシア皇帝アレクサンドル1世は和平交渉を拒否し、10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を余儀なくされた。その帰途、大陸軍は冬のロシアで壊滅する。 ボロジノの戦いはトルストイの『戦争と平和』でもクライマックスの一つとして描写されている。